【おさんぽ】脱いだ靴と砂浜と
夏を目前にした太陽は、つい先ほど地平線に沈んだが、こんな時間でも空はまだうっすらと明るい。
孝平は、恋人である響香の片手を引いて海浜公園の浜辺を一緒に歩いていた。
孝平の出で立ちは、ズボンの裾をまくったスーツ姿に裸足。右手はスーツの上着とビジネスかばんを持ち肩から引っさげ、傍目からみれば、海浜公園というこの場には似つかわしくない格好をしていた。脱いだ革靴とソックスは響香が持ってくれている。
「それで、どうするんですか?先輩?」
孝平の先輩である山田は、なおも不満顔で問い詰める孝平にあっさりとこう言った。
「どうしようもないだろ。先方がダメだって言うんだから」
新技術商品の持ち込みで、孝平と山田がこの業界大手のT電気を訪れたのは、午後を過ぎてのことだった。
社運をかけた新商品…と、言っても従業員12人そこそこの零細企業の新商品は、あっさり技術課長を名乗る担当者に一蹴されてしまったのだ。
「大体、内容もろくすっぽ見ないでこの回路の特性が分かるわけないじゃないですか!」
もう一度詰め寄る孝平の脳裏に、技術課長とやらの偉そうな姿がよみがえる。
その課長は、孝平が徹夜で仕上げたブ厚い提案書を、表紙を2,3枚めくって眺めただけで、突っ返してきたのだ。
『まぁ、頑張ったのはわかりますが、ウチはもうN社さんと取引きしてますしねぇ』
なめられてるのは一目瞭然だった、見る気もなければ検討する気もないのは明らかだった。
「もう一度行ってきて、掛け合ってきましょうか?」
「やめとけやめとけ。どうせ行ったって門前払いくらうだけだぞ」
そういうと、山田は海浜公園のベンチにもたれかかると大きく伸びをした。
昼すぎの海浜公園にほとんど人影はない。目の前には、数百メートルのウォーキングロードが伸び、その先には砂浜と海が広がっている。
週末金曜日とはいえ、時折ジョギングをしている人が目の前を走っていくだけで、海は穏やかに凪いでいるばかりだ。
「まぁ、おまえも1本飲めや」
山田は先ほどコンビニで買ってきたレジ袋から、よく冷えた1本のビールを孝平の前に差し出した。
「な?これビールじゃないですか。先輩」
山田は、孝平の言葉など、まるで耳に入っていないようにビールを押し付けると、自分も1本取り出し、フタを空けてゴクゴクとビールを飲んでしまった。
「ふぅ。ま、いろいろあるよな。いろいろ…」
孝平は、そんな先輩の姿をしばらく黙って見つめていたが、おもむろにビールのフタを開けると、目をつぶって二口三口と一気に飲んだ。
(苦い…)
その苦さは、孝平の心の中にいつまでも残った。
しばらくしてから山田が言う。
「おまえ知ってってか?N社の社長の息子、T電気の専務の娘婿なんだと」
「え?それって…」
幸平の言葉をさえぎるように山田は言った。
「まぁ多分はそういう事だ。いろいろあるんだよ。いろいろとね」
そのまま沈黙はしばらく続いたが、おもむろに山田は立ち上がると孝平に言った。
「俺、帰るけどおまえどうする?ちょっと早いけど飲みにでも行くか?」
「いえ、俺はもう少しここにいます」
山田が気遣ってくれている事は分かったが、飲みに行くとか、そんな気にはなれなかった。
「そっか。まぁ、あまり気を落とすなよ」
そう言い残すと山田は、歩いて去って行った。今日は、T電気からの直帰扱いだったので、特にする事も無くなった。本来であれば提案書の説明をしていたはずだったのだが。
どれくらいそうしていたのかは分からなかったが。気が付くと西の空はオレンジに染まり夕暮れ時が近い事を告げていた。
孝平は、ポケットからマルボロの箱を取り出すと蓋を開ける。
「ちぇ。最後の1本か」
タバコの箱から最後1本を取り出すと、空き箱はくしゃっと片手で握りつぶす。
きらめく波間に少し視線を落としてから、孝平は大事そうに百円ライターでタバコに火をつけると、ひと吸いしてからふうっと紫煙を虚空に吐きだした。
(ジジッ)
手に持ったタバコは、波間を眺めていたほんの少しの間で、もう半分になってしまっていた。
すっかり温くなってしまった残りのビールを飲み干し、最後の一吸いしたタバコの火を地面で揉み消した時、孝平の携帯が鳴った。響香からだった。
ほんの少しの会話のあと、響香は電車とモノレールを乗り継ぎ、孝平の元へやってきた。
仕事終わりで着替えた響香のワンピースは水色だったが、夕日に照らされて今は輝くような薄紫色に見える。
響香は孝平の隣に座ると、一度孝平を見た後に、自分も同じ様に黙って波間を見つめていたのだが、おもむろにこう言った。
「ね。散歩しようよ。せっかく砂浜もあるんだしさ」
「この格好でか?」
響香は孝平の文句など意に介さず、孝平の手を引っぱって行くと砂浜への階段を降りた。そうして、自分はさっさとパンプスを脱いで裸足になってしまうと砂浜に足を付けてみる。
「きゃ。結構冷たい。やっぱり夏はもうちょっと先だね」
笑顔でそう言う。
「孝平もおいでよ。鞄と靴もってあげる」
「いいよ。自分で持つから」
そうは言っても、鞄に靴に上着は両手に余る。仕方ないので、ズボンの裾をまくし上げ、裸足になると靴下を突っ込んだ靴は響香に持ってもらう事になってしまった。
自分の靴を置いて行こうとする響香に、孝平は聞いた。
「響香。靴…置いてっていいの?」
「私はいいよ。もし無くなってたら孝平におぶって帰ってもらうから」
右手を差し出しながら、やっぱり響香は笑顔でそう言うのだった。
太陽は顔を半分海へ隠し、辺りは薄暗くなりつつあったが、それでも街灯が、砂浜を歩く奇妙なカップルを照らしていた。
孝平は、足に伝わる砂浜の冷たさと、左手から伝わる響香の手の温もりを心地よく感じながらも、波打ち際を黙って歩いている。
そんな孝平を見たあとに、ふと響香が立ち止まって聞いた。
「ねぇ孝平。お仕事で…何かあったの?」
「まぁ…いろいろあったんだけどね…」
答えに困った孝平が、一瞬考えてからそう言った時、携帯が鳴った。今度は山田からだった。
「お、澤口か?今時間大丈夫か?あれから、戻ってアポ取りしてたんだけどよ。月曜日にA社のアポ取れたぞ!ついでにお前の資料見直して、少し修正かましといた。お前、月曜一緒に行っても予定問題ないよな?」
山田からの電話に、孝平はすぐに応える事が出来なかった。
「おい?聞いてんのか?月曜大丈夫だろ?」
「はい…はい。大丈夫です。…あり…ありがとうございます!」
「ん?別にいいって。月曜なったらA社行ってさっさと契約取ってさ、ぱーっと飲みに行こうぜ。じゃ、またな」
電話が終わったあともしばらく立ち尽くす孝平に、響香が言った。
「いろいろあるんだね。いろいろと」
「うん」
孝平は答える。もう辺りはすっかり暗くなっていた。波間は今は仄かな月の光をさざめくように反射させている。
携帯を仕舞い終わって空いた孝平の左手を、響香がもう一度握って笑顔で言う。
「ねえ孝平。もうちょっこっと歩こ?」
「うん」
孝平はそう言うと、波打ち際を再び歩き出した。暖かな温もりを感じる左手を、さっきよりもほんの少し強く握り締めて。